新聞の切り抜き | 忘れないための美術館

新聞の切り抜き

忘れないための美術館-nolde



上は、エミール・ノルデの水彩画。

ノルデとは関係ないけれど、忘れそうな新聞の記事の切り抜きが見つかったので、ここに書き写して、切り抜きは捨てることにする。

切り抜いて取ってあったのは、2002年3月17日(日)の毎日新聞に掲載された「ひとり歩きの朝」。これは、新藤兼人が毎日曜に連載していたもの。この日の一文には、「田は濁る」と表題がつけられている。以下・・・


ぼつぼつ行っても田は濁るーわが集落の百姓たちの合言葉であった。

お父さんは、一鍬打ち下ろしては、腰の煙管で一服するという、百姓らしからぬ百姓であったが、それでも、ぼつぼつ行っても田は濁る、といっていた。

少年のわたしには、それは重苦しく聴こえたものだ。自然に向かって一年中たたかいつづけている百姓というものの、受身の緊張感が感じとれるのであった。

暖かい広島地方では稲と麦の二毛作である。

秋、稲を収穫すると、稲株を起こし、鋤を入れて畝を作って麦を蒔く。

春、麦を刈り取って鋤を入れて畝を壊し、稲作のために田を作る。荒れた土塊の田に水を入れ、代掻きをし、田をよく練っておしるこのようにして田植えを待つ。

この間の田の作りが勝負だ。息つくひまもない作業がつづく。急いではならない、遅れてはならない。しかし、きちんと順序に従って作業をすれば、田植えが出来る田になる。

ぼつぼつ行っても田は濁る、と百姓がいったのは、一歩一歩としっかりやれば、しぜんに田は濁って出来あがる、と戒めたのである。

のちになって、わたしはその意味がわかった。

お母さんが、家の前の広い田の稲株をおこしたのを思いだす。お母さんは、朝昼晩の食事をこしらえながら、そのひまに、表の田へ鍬を持ってはいり、一株ずつ起こした。この田の株を起こすのがお母さんの受け持ちだったのである。

何千株という稲株である。見渡せば目がくらむほど広い。一株ずつ起こしながら、いつかお母さんは最後の株を起こすのである。それをわたしは見た。凄い作業だが、お母さんは凄いとは思わなかった。

人は幼児期にうけた印象や体験が将来に影響するようだ。牛がのろのろと代掻きを引き、これを泥まみれになりながら、代掻きをしっかりと握って、ほりゃあッ、と声をかけて追いたてる百姓の姿が、目の中に残っている。

お母さんが、まるで無造作に稲株に鍬をふり下ろす姿が忘れられない。

独立プロはつねに経済的危機にさらされつづけた。

そんなに苦しいのなら、独立プロをやめたらどうか、と忠告をうけたが、自由を求めて独立したのだから、苦しいことがあってあたりまえだと思うことにした。

「第五福竜丸」(1958年)を撮ったとき、厚い壁に突き当たった。太平洋ビキニ環礁でアメリカ水爆実験に遭遇、死の灰をかぶったマグロ漁船第五福竜丸の事件だから、漁業基地焼津港へ長期ロケをした。

わが独立プロは最低の経済状況で、宿賃が払えない、フィルムを買うカネがない、カメラが故障して撮ったフィルムがダメ。立ち往生してしまった。

焼津市役所の協力してくれている課長のところへ行き、カネを貸してくれないかと頼んだ。呆れかえり、カネがないならやめたらいいじゃないですか、と誠実な課長は怒った。当然である。普通カネがなきゃ作らない。

だがわたしたちは作りたかった。不安な顔で佇むスタッフたちにいった。

ぼつぼつ行っても田は濁る。田を作る話をした。前を向いて行けばいいんだ。誰かが背中を押してくれる。「第五福竜丸」は地に膝をつく寸前に完成した。